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斎藤真一 失われし心への旅

はじめに
 斎藤真一は『瞽女ごぜ』と呼ばれる盲目の旅芸人や遊郭『吉原』の明治時代の情景など失われた日本文化を
描き残し、再認識させたことで高い評価を得た画家である。日本文化といっても歴史の教科書に記される
それは明るく、長い歴史を持ち、現在に至ってもそれが失われないよう伝承されているものが多い。しか
し、そういった日の当たるものだけが文化ではなく、細々と伝えられ、やがてひっそりと絶えてゆく文化
もきっと同じくらいあると思う。科学が発達し、何もかもが機械化され数世紀分の発達をわずか100年のう
ちに成し遂げてしまったかと感じる20世紀は、その速い流れの中で数多くのあまり触れられたくない文化
を抹殺してきたともいえるだろう。斎藤は、このような文化を独特の哀愁に満ちた画風によって表現した。
 斎藤真一が瞽女に出会い、画家として世の中で確固たるものとした独特の色彩を手に入れることになっ
たのは四十に手が届く頃であったが、それを生み出させたものは故郷味野の風景と、父の生きざまであっ
たと思われる。斎藤真一は、岡山県児島郡味野町(現在の倉敷市味野)出身である。斎藤は自分の住んだ
味野の界隈をこう回想している。「私の生まれた町並は、軒の低い格子窓の続きであった。表道をへだて
て、はす向かいに本家の祖父母の家があり、その隣はゑびす屋という小料理屋があった。夜ごと、二階の
明かりの中から、芸者の三味線の音が流れ聞こえてきた。そして、私の家の裏にはきれいな川が流れてい
た。(中略)川に沿った狭い小道には、劇場や、小料理屋や、民家が並び、川しもの映画館の鈴蘭燈が上
げ潮のさざ波に映えて、この町に一つの新しい装いを持たせた頃でもあった。…」註1
 この回想の中には大切な要素が含まれている。「軒の低い格子窓の続き」「三味線(音楽)の音」「狭
い小道」「劇場」「上げ潮のさざ波に映える灯り」これらの風景は斎藤が描き残した作品の中に非常によ
く取り込まれている。言い換えれば、彼の画業の根幹は、味野の界隈にすべてが存在したといえる。こう
いった原体験を遠いヨーロッパや津軽、越後で追体験したとき、あるいは吉原細見記や、明治の吉原の資
料を目にしたとき、心の中でもやもやとおぼろげな形を作っていた何かが新しい作品として出現するので
あろう。
 父、斎藤藤太郎の生涯も精神形成の中で重要な役割を果たしていると考えられる。藤太郎は在郷軍人で
戦争のない時は煙草元売捌所を経営していた。その父の唯一の楽しみであり特技が尺八(都山流大師範)
で、毎夜大勢の弟子たちと繰り広げられる稽古の音や、三味線との合奏の音を聞いて過ごしている。黒い
紗の羽織をまとい尺八を吹いているときの父の姿はりりしく、それが父のイメージとして強く心に残って
いる。戦後は職を失い、子供も家を出て尺八だけが生きがいとなり、虚無僧になって放浪することを夢に
持ちながら病に倒れ世を去った。そんな父の想いを背負い、みちのくの、越後の、ヨーロッパの道をさす
らい父の姿を探し求めていたのかもしれない。そしてその過程として『瞽女』や『明治吉原』のシリーズ
が生まれ、最晩年の『街角』シリーズまで至ったのである。斎藤が終生描き続けた道は決して街角シリー
ズで完結するわけでなく、彼の人生という道が続く限り新しい道が描かれていったと確信している。
 今、斎藤真一が辿った道を振り返ってみると、高度成長化社会に取り残された日本文化を拾い上げる道
だったといえるだろう。
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失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月

池田良平 天童市美術館学芸員